ようこそ!
この映画コラムを担当するアーロンです。
と言っても勝手な独り言と思ってください。
では早速GO!


著者プロフィールはこちら

Back NumberVOL.1〜VOL.9
VOL.9 Re『昼下りの情事』〜女の強さ・男の弱さ・父親の愛〜
VOL.8 “粋”話術の妙技『昼下りの情事』
VOL.7『セブン』/グィネス・パルトロウの死は?!
VOL.6『サイコ』〜『いつも2人で』/映画タイトルデザイナーに学ぶ!
VOL.5 僕の失敗〜『ダウンタウン物語』(『スティング』)
VOL.4『ホセ・リサール』 資金工面が大変なフィリピン映画
VOL.3『ムトゥ 踊らされた保守派観客』&『ホセ・リ(ハ)ーサル』
VOL.2『ハリー・ポッター』の悲劇、『ムーラン・ルージュ』の成功
VOL.1『2001年宇宙の旅』2001:a space odyssey

VOL.9 Re『昼下りの情事』〜女の強さ・男の弱さ・父親の愛〜
さて、『昼下りの情事』もテレビ放映が終わりました。今回は地上波放映だったの
で、多くの方が観れた事と思います。
前回では、映画の“粋”について注意して観てください。と書きました。今回は、映
画を観てくれた事を前提に、書き進めてみたいと思います。

映画の冒頭に出て来るのは、モノローグも担当してる、モーリス・シュバリエ扮する
私立探偵です。それもどうやら浮気素行調査専門らしい事、そして彼の顔からはそれ
をどこかで楽しんでるらしい事さえ伺えます。現に家族紹介する時に、娘の楽器チェ
ロも擬人化しています。おそらく彼は彼の人生・職業も、ユーモアを持って接する事
が出来る“自信家”なのでしょう。

冒頭の事件の捜査依頼人の X氏が、X氏の奥さんの浮気相手、ゲーリー・クーパー
扮するミスター・フラナガンを殺してやるんだ!と意気込んで居る時も、フラナガン
氏が殺されちゃ商売上がったりになってしまう。と言い出すしまつ。おいおい、違う
だろう!と不条理な会話さえ笑わせてしまいます。
唯一、この不条理な会話を冷静に聞いてたのが、隣の部屋に居た、彼の娘、オード
リー・ヘップバーン扮するアリアンヌです。
当然の事ながら、彼女は未然に、この殺人事件を防ごうとしますが、とうとう警察に
さえも討てあってもらえません。彼女の強さはここで発揮されます。危険も省みず彼
女はリッツホテルのベランダを命懸けで渡り、正にこれから殺人事件が起ろうとして
る、フラナガン氏とX婦人の浮気現場に乗り込みます。

映画の進行上、また演出の妙技と言うか、このサスペンスはコメディーとして描かれ
ます。
前回もヒッチコックの事をほんの少しだけ引用しましたが、実はこの映画自体、『北
北西に進路を取れ』などの巻き込まれ型のサスペンス映画と何ら変わらない物を持っ
て居るのです。もしも、ビリー・ワイルダーで無く、ヒッチコックがこの映画を手が
けていたら、ヒッチコックの多くのサスペンスの中に埋もれてたかもしれません。

やがて、フラナガン氏は、この女の子に振り回される事になります。それは彼女が意
地で吹き込んだテープレコーダーによって引き起こされます。このテープレコーダー
は初め、フラナガン氏が仕事で使ってる様子がインサートされてますが、会話の内容
からして、彼が大実業家で有る事が伺えます。そこに現れた彼女を見つけ、彼はテー
プを切る前に、「モア・レイター」残りは後で・・・と切ります。今度は彼女がテー
プに録音した時も、彼に見つかりそうに成った時「モア・レイター」とテープを切り
ます。・・・後で彼が苛付いた事の最大の理由に、この「モア・レイター」と使う彼
女の重さが存在したからでしょう。今まで何気なく使っていたこの言葉を逆に使われ
てしまった事に寄り、彼は恋の駆け引きに負けてしまったのです。一度崩れると、男
と言う動物は弱い物です。

映画のラスト父親は自分中心だった家庭環境を後悔し、フラナガン氏も弱い男を悟り
ます。彼女を取り巻くこの2人の男達の弱さの悟りから生まれる信頼関係が、彼女を
後々支えて行く信頼の受け渡しに確約されて行くのでしょう。

そう言えば、この映画のラストシーンは、ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』の
ラストシーンのケーリー・グラントとエバ・マリー・セイントの演出にどこか似てま
すよね。
名作の名に値する、ロマンティックなラストシーンです。





VOL.8 “粋”話術の妙技『昼下りの情事』
2002年3月24日22:00〜、NHK教育チャンネルで放映される
『昼下りの情事』1957/ユナイト映画
は、
監督ビリー・ワイルダー/主演ゲーリー・クーパー、オードリー・
ヘップバーン、
モーリス・シュバリエ、公開に先駆けては、これだけ
の人材が揃え
ば、ある程度のヒットは約束されたも同然でした。
今なら・・・ハリソン・フォード と、グゥイネス・バルトロウ と、ポール・ニュー
マン を連れて来て、ロバート・ゼメキス に監督させた。って所でしょうか?
もうそれだけで一見の価値が有る。ってなもんです。

さて、これだけの監督と俳優の要素を持ち合わせると、
大成功すると言えるでしょう
か?
・・・いいえ、配給会社側から見れば、こんなに宣伝材料として楽な事は無いで
しょうが、製作サイドとしては、大変な苦労です。今正に、サラミソーセージ と、
白桃と、ドリアン とを一緒の鍋の中で料理するような物ですから!

『昼下りの情事』は、予定通り公開当時から大ヒットしました。そして、その後も
“名作”と呼ばれるようになったのです。モノクロの映画にもかかわらず、当時から
リバイバルもされ、テレビの映画劇場の走りの頃にも、その映画劇場の年間ベスト10
にもランクされた映画です。そうそう、『地球に落ちて来た男』デビット・ボーイ主
演の映画の中でも、ワンシーンがその映画の中に出て来るテレビの中でかかってました。

『昼下りの情事』は、ある年の 6月11日の早朝、パリの一流ホテル、リッツの一
室を覗き見るモーリス・シュバリエのモノローグから始まります。6月のパリと言え
ば、冷たい雨の季節を逃れ、7月の独立記念日、いわゆるパリ祭の直前で、恋の
虫も
騒ぎ出そうかとしている時です。プロローグは、シュバリエのモノローグにより一つ
道ならぬ恋へと導いて行かれます。

元々シュバリエは、幼少の頃から芸人として叩き上げられた人です。ヘップバーンは
『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を取り、一躍有名になり、未だそれから4〜5年
程しか経っていない人気絶頂期です。クーパーと言えば、絶頂期は過ぎた物
の、まだまだ
一枚看板を背負える程の人でした。

この映画の中で、シュバリエ と ヘップバーン は親子を演じてますが、撮影現場で
は、我娘役の ヘップバーン の事を シュバリエ は、大変嫌ってたそうです。まあ、
考えても見れば、映画の舞台はパリ、シュバリエも生っ粋のパリっ子と言われた芸人
一世を風靡した人です。彼にとっては、パリジェンヌでも無い新人女優がパリジェ
ンヌより
パリジェンヌらしく魅了してるのに我慢が成らなかったのでしょう。事実、
撮影合間の合同写真には、シュバリエは、とうとう姿を現さなかったと言う曰く付き
の合同写真が残されていますから・・・。

まあ、そんな裏話も感じさせないような素晴らしい親子の演技を見せています。それに、
この映画の楽しさは、その生きた会話の運び方にあります。良く聞いていると、
同じ言葉
の使い回しや、韻を踏んだ遊びが随所に出て来ます。そうする事により登場
人物の裏の
感情が面白いように表に現れます。・・・一つのテクニックとして、極力
言葉遊びをさせる
事で言葉の裏に潜む真実に、ほくそ笑ませる事をしています。人は
秘密が大好きです。
見えない裏を観てしまう事は何にも増した悦楽と言っても過言で
も無いでしょう。
一般的にドラマを創る上でも、すれ違いをさせる。とか、ギリギリで見せない。とか
の手法を使う事によって、観客は想像する喜びを得ます。

この前取り上げた、ヒッチコックも初期の映画でテーブルの下の爆弾を爆発させた事
「あれは失敗だった、それで観客が満足してしまったから」と言ってます。

『昼下りの情事』は、パリを舞台にした、ロマンティック・コメディーです。
今まで名作と言われたのには、それなりの物があるからだと思いますが、この映画からは
“粋”と言う事を学んでほしいと思います。画面の至る所に“粋”を見つけ出す
事が出来ます。
例えば、女の子をスーツケースに座らせて鍵を掛ける時「ちょうど良
い重さだ」と言ったりとか。
女の子が「足も太いし、耳は尖ってるし、首はひょろ長
いし、」と言うと、彼は「でも、そのくっつき方が良いんだよ」と言ってみたり。初
めてのホテルの前での別れのシーンで繰り返される「メルシー、ミスター・フラナガ
ン、ボンボワヤージュ」の使い方の妙技。何もプレゼントなんか欲しく無いと言いな
がら「これ、いい?」と胸のポケットから抜き取った白いカーネーションをいつまで
もコップに差し、冷蔵庫の奥に仕舞い込み、うつぶせでかわす、父親との会話、窓の外は
パリの長雨です。
他にも、おしゃれな粋を随所にちりばめた作品です。それが当時から受入れられてたから
こそ、現代までも続く“名作”と呼ばれてる所以じゃないでしょうか。

映画を観るにあたり、いくつかのキーポイントを・・・随所に流れる「ファシネー
ション=魅惑のワルツ」はジプシーのワルツとして元々有った曲です。ジプシーは大きな
キーポイントかな!?
それから、セーヌの右岸と左岸とは、少なくとも多摩川の右岸と左岸との違いはあるかも。
フラナガン氏は多くの会社の株主ですが、コーラの株も持ってます。そのコーラの
キャッチコピーは一瞬言われますが、おそらく字幕にはならないでしょうから、ここ
で・・・「いつも、あなたの、お側に・・・」です。
その他、女性の皆さんにはファッションもたまらないかも!ラストシーンのスカーフ
の巻き方は、当時「アリアンヌ巻き」と言って流行った巻き方です。登場する隣の小
犬は、オードリーの当時の愛犬です。
そう言えば、物語の進行中、ゲーリー・クーパーには、オードリー・ヘップバーンの
名前が分りません。困り果ててクーパーは「アドルフ(エイドルフ)?」と聞きま
す。それに対してヘップバーンは「アドルフ?!・・・少なくとも私は女よ」と答え
ます。これは少なくとも、アドルフ・ヒットラーを意識した遣り取りでしょう。その
少し前のシーンに「世の中は撃ち合いが多すぎる・・・愛も足りないし」と言う彼女
の話から膨らませて考えると推測出来ます。が、そう言われても発言を許す女心が彼
の中に存在する事は、再開した時に「アドルフだね!」と言われた時、
「・・・ま
あ、そんなところね」と許してしまう女心に象徴されて行きます。

録画出来る人は録画しましょう。何かと勉強になりながら楽しい映画です。





VOL.7『セブン』/グィネス・パルトロウの死は?!

以前、某、映画関係のメルマガのBBSで、こんな質問の投稿文が載りました。

映画『セブン』でなんとも一つだけ気になることがあって、どーにもこーにもすっきりしません。ラストのラストで、ケビン・スペイシーが 「私は君を妬んでしまった。これは罪だ」とブラッド・ピットとグィネス・パルトロウの夫婦仲を妬み、バルトロウを殺してしまう。それでブラッド・ピットは怒りと理性の激しい葛藤となり、引き金を引いてしますわけですが。ここで、残された7つの大罪のうち残っていたのは2つ。

“妬み”=ケビン・スペイシー

“激怒(?)”=ブラッド・ピッド(つかまって生きながら罪に苛まれる)

となると、グィネス・パルトロウは、どーして殺されちゃったの??そこはケビン・スペイシーの“衝動殺人”になってしまうの?他に複線があるのでしょうか?

・・・と言う物でした。その疑問に関して、僕なりの独自の解釈をしてみました。これはその質問に対しての答えの改訂版です。

映画のラストの車中のシーンで、犯人ケビン・スペイシーに、ミルズ刑事ブラッド・ピッドが「もし選ばれし君(犯人)が殉教者なら何故人殺しをして“楽しそう”にしてるんだ?」との質問に「もしミルズ刑事も私と2人きりで尋問出来たなら楽しまなかったか?」と問い掛けます。この映画は知能有る人類のみが犯す“罪”に対する問いかけの映画であって、“死者の数”に対して問い掛けている映画では無いと言う事です。

また犯人は、車が到着した現場に転がってた犬の死体に「私がやったんでは無い」と言います。
これは人間のみに関してだけ映画が向けられている事への伏線でしょう。

“罪”を問う犯人は熱血あふれるミルズ刑事に、その熱血漢の裏に存在する“自己満足感”を[それも、ある人にとっては大罪に成る事も有るんだよ]と示したかったんだと思います。冷静で“ある種の無関心”さえも感じさせる黒人刑事には手を下そうとはしないし、雨の中を銃口を向けて逃走するシーンでさえ、ミルズ刑事を追いつめた犯人はミルズ刑事を殺さなかった。犯人はいつも“衝動殺人”は結果的にしてない。
そう、この事からも“罪”をう映画であっても、“殺人シーンを見せる映画”では無
い事が貫かれてますよね。

・・・ちょっと当り前の事を書かせてくださいね。
映画と言うものは、単なる娯楽芸術としてのみの存在なのだろうか?・・・当り前の事ですが、僕達は一度だけ、自分の人生を生きる事しか出来ないのです。でも、映画を通して人生の疑似体験する事は出来るんです。もちろん他の芸術を通しても他の人生の疑似体験は出来ますよね。人はそれぞれです。でも、中でも映画は“最も手軽に解りやすく楽しく疑似体験を出来る”手立てだと思うんですよね。複雑そうに見える人生も、シンプルな事の積み重ねですよね。行き詰まり複雑に絡み合った事柄こそ、一つ一つシンプルに解いて行かなければならない物です。意外とね・・・。

ちょっと極論でしょうが、映画の娯楽・芸術を通して、自分自身の存在理由も、生きる事への問いかけをする事にも、魅力も有れば“楽しみ”も有るんだと思います。でも、この“楽しみ”と言うのが曲者!“辛さ”や“悲しみ”を知らない者は本当の“楽しみ=喜び”を知らない。火を知らなければ熱さが解らないのと同じです。

悲しきかな人間の“楽しみ”の中には“不純な事程、楽しみが倍増する”事だって有るんですよね。調子に乗って羽目を外すって言うか・・・。でもその時って知らない内に誰かを傷付けているって事も有る。いじめ問題にしても同じですよね。

折角“楽しんで”映画を観るなら、その中に秘められたメッセージを探すのって“楽しい事”ですよね。作り手は何十何百時間のフィルムを2〜3時間に圧縮してます。作り手の上手い下手は有っても、無駄なシーンもセリフも音楽も、まず有りません。

何故わざわざこんな事を書いたかと言うと、『2001年宇宙の旅』でも、主従の立場で“シンプル”に観ると見えて来る物が有る・・・って事を書きましたね。その“シンプル”な観方を重ねた上で『セブン』を観ると、たとえ独解にしても、疑問に一つの解釈が出来る事を示したかったからです。

映画の中で、小学校教師だったミルズ刑事の妻バルトロウが「この街は嫌い、小学校(職探し)も何軒かまわってみたけど・・・」「・・・でも子供を産むわ」と告白するシーンがあります。そして犯人がミルズ刑事に「奥さんは子供の命乞いもしたよ」とも打明けます。

彼女が罪を犯したと犯人が感じた事が有るとするなら、“この街”や、夫にさえまだ話して無い“お腹の子供”を盾に、自分の“存在の正当性”を主張している事を見抜いてたからでしょう。

・・・キツイ言い方だとは思いますが、彼女もまた、存在をどこか無視された“静かなる激怒”の渦の中に居たのでしょう・・・

・・・それに、この映画がもっと浅い映画であるとしたら、バルトロウほどの存在感が有る女優をこの役に宛がわ無かった事でしょう・・・

そう言えば『セブン』の黒人刑事が、夜の図書館で調べ物をするシーンで、警備人がかけてたラジオから、バッハの名曲「G線上のアリア」が流れてます。
これは“バイオリンのG線1本だけで奏でる事が出来るアリア”=“1本のポリシーを貫いた映画”でしたよ。





VOL.6『サイコ』〜『いつも2人で』/映画タイトルデザイナーに学ぶ!
「真の名作ほど、一滴の血を見せる事無く出来上がってるものです。」
・・これは、前号『ダウンタウン物語』の最後に書いた僕の言葉です。
でも当然名作には、それを支える、テクニックもエレメントも必要です。
今、映像のテクニック=技術に関しては「それを支えるハードの進歩のお影で、
一定の映像は誰でも撮れる様に成って来た。」
これも、『渇いた記憶』のアンケートの時に言いました。
これから折に触れ、いくつかの映画をピックアップしながら、
テクニック一つで、かなり変わっただろう、
映画のエレメント=要素に関して少しずつ触れて行きたいと思います。

まず、サスペンス映画。
好きでも嫌いでも避けては通れないヒッチコックの、シャワー殺人シーンで有名な『サイコ』からです。
“今更『サイコ』のシャワー殺人シーン!?”なんて言わないで、お耳を拝借。
意外と知られて無いエピソードですから・・・。
・・・当時、ヒッチコックは、新しい試みの心理映画に取り組んで居ました。
映画のタイトルは『サイコ』・・・
後に“サイコスリラー”と言う新たなるジャンルを切り開いた記念碑的作品です。
・・・撮影に当たり、ヒッチコックは壁にぶつかっていたのです。
かつて無かったエレメントに、その殺人シーンは特別な物で無くては成らなかったのです。
ジャネット・リーのシャワーでの殺人シーン・・・ヒッチコックは冒頭の、
このショッキングなシーンに今までに無いインパクトの有る映像を求めたのです。

でも考えても考えても何かが違う。
このシーンにインパクトを持たせ、今までの殺人シーンとは違う、
不条理で異常性を持ったシーンに仕上げてこそ、
ラストの独房の中のノーマの2面性の会話が、より恐く仕上がると言う物。
今までに無かったインパクトを与え、その強烈なインパクトで、
この作品のテーマに特異性を持たさなければ成らなかったのです。
彼は、彼の作品の映画タイトルデザイナーに相談しました。

彼の名前は、ソール・バス。
1950〜1960年代中心に活躍した、映画タイトルデザイナー、
手書きのタイトルが大活躍してた頃の人です。
代表作に『ウエスト・サイド物語』『80日間世界一周』等、そしてヒッチコック作品が有ります。
バインダーはひとつの提案を絵コンテで示しました。それは正確に描かれた絵の束でした。
そして出来上がったのが、未だ映画の歴史に名を残す、有名な『サイコ』のシャワーシーンなのです。

映画を観た方なら忘れようとしても忘れられない恐い名シーン、忘れられないのは、
構図の美しさにもありますが、明らかに、あのシーンだけ、映画の流れのスピード感が違うのです。
そして良く見ると、切り裂くような弦楽器による効果音はすれど、ナイフが直接突き刺さるシーンは
一個所も無いのです。これぞ“見えない恐怖体験”です。
刺し傷が具体化しないからこそ、観客の恐怖は無限の恐怖に追い込まれるのです。
そして留めがジャネット・リーの目のアップです。死んで横たわるこの目のみが、
観客が最も知りたい真実を焼き付け無になった最も恐怖を吸い込んだ結晶なのです。
もうお解りと思うけど、核心を見せない事は想像を委託します。

映画『サイコ』の有名なシャワー殺人は、このようにヒッチコックでは無く、
デザイナーのソール・バスの手による演出で出来上がってます。
これは本当にあまり知られてない事です。これは憶測ですが、
『鳥』のワンシーン、ティッピー・ヘドレンが、ドアの前で鳥の群れに襲われるシーンが有ります。
また、このシーンもソール・バスもしくは、彼の影響が非常に反映されてると思います。
チャンスが有れば比べてみても面白いと思いますよ。
直接的シーンを見せず想像に委ねる恐怖、まだまだ有るでしょう。
これは、テクニックを生かしたエレメントの古典の一つでしょう。

もう1人、頃同じくして活躍したタイトルデザイナーに、モーリス・バインダーと言う人がいます。
代表作で誰でも知る物に、初期の『007・シリーズ』があります。アイリスの中に現れる 007は、
あまりにも有名ですね!
モーリス・バインターは、スタンリー・ドーネン監督と一緒に組んで仕事をしてます。
ドーネンの『シャレード』のオープニングタイトルは、どこか、ヒッチコックの『めまい』に登場する
“渦巻”と似たオープニングタイトルのサスペンスです。
彼も又、タイトルデザインに凝り影響も受けた監督の1人でしょう。

元々ドーネンは、ジーン・ケリーと組み、多くのミュージカル映画を世に送り出して来た人ですが、
そのミュージカルで鍛えた感覚で、晩年の作品『いつも2人で』は、
同じ夫婦の 5つの旅行が交錯して、平凡な愛が非凡に膨らむように映画編集された作品です。
決して『いつも2人で』の2人は、愛して愛して愛し合う2人では無いのです。
逆に現在の関係は殺伐としたものです。
5つの旅行が細かく交錯する中で、シーンはソフトにもハードにも描かれます。
まるで『サイコ』のシャワーシーンの、柔肌やシャワーの水とモノクロゆえに色を掻き立てる黒い血と、
ナイフや整然と並ぶ白いタイルや死んだ眼差しのように・・・。

ソール・バスとモーリス・バインダー
・・・同時代を戦って来た 映画タイトルデザイナー達、突き進んで比べると意外な共通点ですよね。
これは作品のクオリティーを上げる為に用意された“見せないで、想像を委託する”
創造的テクニックに裏打ちされた一つのエレメントです。





VOL.5 僕の失敗〜『ダウンタウン物語』(『スティング』)
今でも悔やまれる大きな後悔談は、避けて通れない話です。
・・・う〜ん・・・それは、映画を“意識して”観はじめた直後の、中学〜高校の初めの 2〜3年間かな・・1971〜1973年頃だと思うから、これを読んでくれている あなたが、生まれたか生まれて無いかもしれませんね。

それは自分の心のどこかで(俺は映画をたくさん観てるんだぞ!)・・・そんな意識があって、映画を“見て”いた時です。今思うと“観て=観賞”は、してなかった頃です。・・・悔やまれるのは、そんな心で、通ぶって見てた、たくさんの映画は、僕の心の引き出しの中を探しても、何も入って無いんです。それはそうですね、ただ見てただけで、それどころか通ぶって、重箱の角をつつく様な見方が、通だと思ってたのですから。

その頃は、すでに演劇もやっていて、良く舞台も見に行ってました。それは、映画『ウエスト・サイド物語』の1970年のリバイバル公開を観て強い衝撃を受けてた数年後の“通ぶってた頃”の事です。
劇団四季が本格的にミュージカルを始めた直後に、それをやったのです。

主役のマリアは客演の雪村いずみ、トニーには、劇団四季で新人の頃の来賀武史(名前の漢字が間違ってたら訂正してください)でした。舞台は一度幕が上がると遣り直しが出来ません。でも僕は、進行中に起った凡ミスを、終演後に偶然会場で会った学校の先生に、得意げに話したんです。返ってきた応えは「・・・でも、良い舞台だったわね」

・・・僕は殴られた想いで、赤面を隠せませんでした!僕は見てただけで、観ては居なかったのです。僕は自分を恥じました・・・。それから努めて僕は映画も観るように変り、その赤面のお影で、それ以降観た物は、その欠片が心の引き出しに、ちゃんと残るようになりました。

ちょうどその頃、僕を嬉しく騙してくれた映画があります。一本は『スティング』・・・これはかなりメジャーで今でもビデオで観れるから、ここでわざわざ語る事は避けときましょう。
もう一本は、当時 16歳の ジョディー・フォスターが出演者の中で最高齢だった、アラン・パーカー監督の『ダウンタウン物語』・・・知ってる人は知ってる、観た事が有る人は観た、そんな映画でしょう。
なぜなら、リバイバルも無し、ビデオも探さないと廃盤でしょう。テレビで『スティング』よりは少なく(笑)放映されたかな?程度です。

『ダウンタウン物語』
・・・それは、禁酒法が布かれたアメリカ/ミュージカル/
出るのは子供達だけ/ギャング物・・・監督は アラン・パーカー、
出演者で有名なのは 16歳の ジョディー・フォスター くらい。
・・・当時の映画批評は、そのストーリー展開を訴える物ばかりでした。

『ダウンタウン物語』
・・・それは、子供達だけで創った、禁酒法が布かれた、
ギャング・ミュージカル映画で片付けては行けない映画なのです。

僕達大人は子供の頃、遊びの中で、テレビのヒーローに成って、あるいはヒロインに成って本気で遊んだ大切な頃を思い出す今がありますか?簡単に言ってしまえば、僕達が路上で遊んでた大切な事を、大掛かりな映画の中で やってしまった、そんな遊びを大人に忘れて欲しく無いとの、願いを込められた映画なのです。

『ダウンタウン物語』の中に出て来る、最高齢のジョディーでさえ、アルコールも運転もしちゃ逝けない子供達ばかりなのです。「スピークイージー」と呼ばれる裏酒場の紳士淑女も子供です。
そこで飲んでるカクテルは、すべて只のジュース、1930年代のアメ車は、すべて足こぎ動力車、
ギャングの機関銃から飛び出すのは、しっくい。パイの爆弾、それらに当った者は死ぬのです。血も流さずに!

・・・でも、そんな配慮は、子供達だけで創ったパーカー監督の只の配慮と当時の誰もが思い込み、
映画紹介記事も、その事ばかり書き立てました。僕もすっかりその気でラストまで楽しんで観てました。
最後は、敵も身方も入り乱れてのパイ合戦!ハチャメチャです。

と急に酒場のピアニスト役の少年が歌いだします。

「♪僕らは何にでも成れるんだ、変る事はいつだって出来る、
そう望みさえすれば、遅すぎるなんて事は無い変れるのさ、
もし あなたが嘘で身動き出来ない時は、チャンスをあげよう。
先の人生は、真っ白なキャンパスなんだ・・・。
愛を注げば、こぼれて戻ってくるよ。
君は、記憶される、考える事・言う事・する事で・・・。」

これは、今までパイ投げをやってたみんなが、肩を組んで、やがて大合唱の輪に広がって行きます。
敵だった子も、身方だった子も、入り乱れて。

この時、気づくのです。
僕は、子供達のギャング・ミュージカルを観てたんじゃ無いんだ!大仕掛けの“ごっこ遊び”に、はめられて居たんだ!って・・・。そうなんだよ。この映画の子供達は、確かに本格的なセットの中でカメラの前で、いつしか真剣に遊ぶ事を忘れかけていた僕達に、可能性の素晴らしさを見せてくれたんだ!
決して忘れちゃいけない事を・・・

僕はすっかり騙された心地よさに酔いながら家路に着いたものです。
僕の未来だって何にでも成れるんだと思いながら・・・

・・・それから、30年弱、僕の「後押し映画」の 1本に成っています。
未来は可能性を含む、愛してほしければ、無償の愛を注ぐ事。
良くぞ僕を映画の最後で裏切ってくれた。大好きな映画の 1本です。

これから創り手の“技”を盗むとすると、徹底的に観客をだまし、最後に心地よくドンデンする。
と言う事でしょう。映画は観せる芸術・技術です。
途中でネタばれさせる時は、それなりの意図と力量が必要です。最後にばらすなら、不快感だけ残すネタばれは、自己満足にも繋がるでしょう。

ドラマ=拳銃=血だとしたら、それは安易な考え方でしょう。誰もが簡単に考え出せるからです。
もちろん、そんな世界も有りですよ。でも、それをドラマのセオリーに使うのだったら、+∂ の物が無いと観客は納得しないほど、映画は創られ過ぎている、と言う事なのです。

映画が創りたい人は、五万と居るでしょう。なら、後を追いかけてもダメなんです。下手でも良い、自分だけの視点さえ持って居れば、そしてその事を的確に伝えられれば良いのです。

血を流せば、はっとする場面は創れるでしょうが、観客は一線を置きます。現実とはかけ離れた世界になるからです。血を流さなければ、筋立ては創るのに大変に成る事でしょう。
でも、その分観客は、何の違和感も無く、映画の中に感情移入が出来やすくなるのです。

真の名作ほど、一滴の血を見せる事無く出来上がってるものです。





VOL.4『ホセ・リサール』 資金工面が大変なフィリピン映画
ようやく本格的日本公開がされてる。フィリピンの巨匠(僕は最も注目して良い世界
的監督の1人だと思ってる)マリルー・ディアス=アバヤ監督の作品である。彼女は、
バリバリ油の乗った40代の女流監督です。

彼女の過去の作品は、僕がまだ福岡に居た頃、毎年9月に福岡市中で開催される
「福
岡・アジアマンス」の一環として開催される「アジア映画祭」で毎年のように絶賛をあび、
監督自ら映画祭のステージに招待されてました。

かしこれは、監督として実力を認められ、評価されて行くほど、期待もされ、自分の意としない
作品の監督依頼もされて行く事に成るでしょう。彼女が望んだか望まな
かったかは、僕には解りません。でも『ホセ・リサール』には、「フィリピン独立100周年記念作品」と言う添え書きが付け加えてあります。今までの彼女の作品には無かった事です。

映画を観て、一番に思った事は、彼女の映画らしく無い。と言う事です。作品の質が
悪いと言ってる訳じゃ無いんですよ!お間違え無く!・・・もちろん他の監督が『ホセ・リサール』を描いたら、フィリピン独立に苦悩したホセ・リサールを描けたか?
それは解りません。しかし、彼女の本当の持ち味が生かせる題材は、もっと庶民レベルの苦悩を描いた、貧富の国ゆえに子供を手放し亡くした母と、その女性を母と信じきって愛を求める孤児、そしてその女性の母との確執を描いた『マドンナ・アンド・チャイルド』や、多くの島から成り立ってるフィリピンの現状のほんの一部を、生まれながらに親から仕事を受け継いぎ、一生独身をしいられた男性の助産師を通して描いた『海に抱かれて』などにあると思う。これらの作品は残念ながら、日本では「福岡市総合図書館映像ホール」にしか所蔵されてない。『ホセ・リサール』の公開を期に是非とも全国公開してほしい彼女の作品である。

で、何故前回『ホセ・リ(ハ)ーサル』ともじったかと言うと、マリルー・ディアス=アバヤ監督にとって、今まで築いてきた彼女の演出力に対しての、彼女自身が次への彼女の飛躍としてのステップとなる作品だと確かに思えたからである。彼女は、その実力ゆえに、自分が撮りたい作品と、監督依頼を受ける作品との両面をこなして行かなけりゃいけないだろう。これは、監督を目指す誰もが抱える問題である。映画資金が乏しく、実力で高く評価され、フィリピン独立100周年記念作品を任された監督と、インディーズから商業映画へバックアップされる監督と、似たような試練を、プロデューサーも観客も機関銃を持って待ち受けてる。と言っても過言では無いだろう。
映画を批判する僕も自分の信念で批判するように、映画の創り手も、確固とした
自分だけの信念で映画創りを貫き通してほしい物である。

『ホセ・リサール』は、岩波ホールで公開中です。色んな事を書いたけど、チャンス
があれば、お薦めする映画です。この機会、見逃したらそんなに掛からないでしょうから・・・




VOL.3『ムトゥ 踊らされた保守派観客』&『ホセ・リ(ハ)ーサル』
これは、もちろん『ムトゥ 踊るマハラジャ』と、“フィリピン映画の本格的日本初公開”として公開の『ホセ・リサール』の事です。

幾人かの人達には、それなりのブーイングを受ける事を覚悟で映画タイトルをもじってみました。方や核実験実施直後で世界中の批判を浴びながら公開されたインド映画、マサラムービーと言う言葉を生み出し(生み出され)、色んな媒体で「楽しい映画」のレッテルを貼られて、「ムカツク」なんて言おうものなら皆から爪弾きにされてしまうぐらいの“バブリー”と言っても良い映画です。・・・久しぶりに、この映画を観ながら知らぬ間に年越ししてしまった私めであります。

方や貧困の中で、独立100周年記念作品として創られたマイナーな映画です。映画を一つの作品と考え、それを“芸術”の分野に入れるか、あくまでも“娯楽”の分野に入れるかは、それは創り手側にある問題だから、どちらに有っても良いと思いますが、この2つの作品には、比較出来る部分が多々あります。もちろんインディーズとも・・・。

堅苦しい話は無しとして、この2本の映画、好きか嫌いかで言うと、『ムトゥ・・・』は僕の嫌いな映画の一本です。決して“芸術作品”に分類出来る映画では無いと観て思いました。では、“娯楽映画”?・・・それもどうだか・・・。娯楽と観る以上、それなりの不快感が残るのはどうかとも思うし、第一映画に没頭出来なかった。これは致命傷です。

『ムトゥ・・・』が渋谷で公開された時、確か「楽しいマサラ・ムービー」と言うキャッチコピーが付いたと思います。・・・マサラ・ムービーとは、必ず歌と踊りが登場する、能天気な映画だ・・・とも評されたと記憶します。話題の作品と言う事で、僕も一応映画館に足を運びました。でも、映画を観始めて感じたのは腹立ち以外の何物でも無い事を実感しました。

英雄とは財産を持った地主、そう言う価値観の下働きの者は、地主=ヒーローを称える事が最も人として価値有る生き方として描かれます。英雄が歩く道の両脇には、カゴに生命の最もはなやかしい時に摘み取られた色とりどりの花びらが盛られ、英雄が歩く道の前に惜しげも無く撒かれます。その生きた花びらを踏みつけながら歩く姿こそ、彼らが思い描くヒーロー像なんでしょう。それを観た時、僕は、ユダヤ人を踏みつけて歩くナチスや、植民地の人を人間扱いしなかった過去の人類の過ちを映画の中に観たような気がしました。花=植物と言えども、りっぱな生き物です。別に僕は、どこかの集団に属して批評しようと言う気は、さらさらありません。これはそれ以前の問題だと思うから自分の価値観の中で言う事なのです。

花一つを取っても、ヒーロー感を取っても、この映画の前年に、世界の反対を押し切って、核実験を遂行した国、日本の映画配給会社は、すでに公開が決っていた、このマサラ・ムービーを商業的に成功させなければ成らなかったのです。「歌と踊りの楽しいマサラ・ムービー!」そう大々的に宣伝するしか無かったのです。あらゆるメディアの力を利用して。現代の若者中心の「他人と違う事を言ったらバカにされる!」と言う新保守主義的な主体性の無い多くの心理も利用して。

・・・なるほどだな・・・と思いました。・・・多くの色彩にあふれて、そのことが当り前の感覚に成ってる国もあるかと思うと、真っ白い雪に一年の大半を被われ、その中に咲く無彩色に近い、雪割草=エーデル・ワイスを称え歌う国もあります。生活の環境がどれほど生命体を大切に扱うか、これは密接な関係が存在すると思います。これを日本の文化環境に当て嵌めると、日本ほど多種多様な表現を操る国は、他に類を見ないと思います。夕暮れ一つ取っても、空色は水色に、茜は紅に、藍色は群青に、薄暮は紫に、と表現の豊かさを表わせる国は、他に例を見ないでしょう。

今回は、『ホセ・リサール』の事まで話が行きませんでした。『ムトゥ・・・』に関しては、かなり手厳しいコメントをしましたが、「僕は違うぞ!」と言う反対意見が存在して当然良いのです。今回僕は、商業映画の中に存在する、反対意見を言おう物なら総好かんを食らう事には屈して欲しく無いインディーズへの思いを込めて、『ムトゥ・・・』をあえて批判させてもらいました。

『ホセ・リサール』を何故『ホセ・リ(ハ)ーサル』ともじったかについては、何故か考えて置いてくださいね。お薦め映画なんですよ。





VOL.2『ハリー・ポッター』の悲劇、『ムーラン・ルージュ』の成功
と書くと、「え〜!なんで〜!」と不思議に思いますよね〜。どちらもロングラン、興行的に成功をしてるのに・・・。この結果は、ビジネス評価で言ってる事です。特に『ハリー・ポッター』に関しては、事前の原作本の大成功のバックアップ、事前の宣伝が大きかった。大ヒットは約束された物でしたよね。だから“失敗”とは言って無いんです。あくまでこの足枷による“悲劇”に追い込まれたと言う事です。どんな映画にも賛否は興る物だと思いますが、特に原作がヒットしてしまうと、絶対やっちゃ行けない事で、観客は より個人レベルで評価をしてしまいます。「原作の通りで良かった」とか「違ってた」とか・・・。まずこの時点で評価される事自体、映画は原作のビジュアル化として捕え、独自の芸術だとは評して無い。と言う事です。いくら映画宣伝部が「あの大ヒット作の映画化!」とか宣伝しても、映画を観るのは、“あなたの感性”です。過去に見聞きした事は観客としての“あなたの感性”を磨くもので無くてはならない体験ですが、・・・ちょっと難しいニュアンスかもしれませんが、体験で映画を観ちゃ行けないと言う事です。体験は・・・例えば災害やイベントの様な事。・・・それで育つ“感性”は・・・喜びや怒り・悲しみから興る、独自の目・心とでも言いましょうか・・・。「自分は映画をかなり観ているんだぞ」的な事を思いながら、映画を観ようとしている人が居たなら、すぐに僕は訪ねます。「映画を観てて重箱の角をつつく様な観方をして無いですか?楽しく映画を観れてますか?」ってね。まず、こんな観方をするような観客になるのだけは止めましょう。何本映画を観てても映画がつまらないと思いますよ。

でも『ハリー・ポッター』の本当の悲劇は、映画の創り手が、その足枷に屈してしまった事に有ると思います。

前回『2001年宇宙の旅』の時に、触れましたよね。道具は道具、コンピューターだって人間が作り出した一つの道具なのです。『ハリー・ポッター』のCGは、CG有ってこそ完成された映画です。「当り前じゃないか」と言う意見も有るでしょうが、あまりにも技術が前面に出過ぎている。肝心の登場人物の心の動きには付いて行く観客の心の準備時間なんて用意されて無く、それっぽく音楽や感情に流されて行ってしまってる。そこに観た人が言う、物足りなさが存在するのでは?無いのでしょうか。そう、音楽担当もジョン・ウィリアムズです。好きか嫌いか、僕は好きです。彼の曲は、・・・でも約30年程も昔から、大作(特にSF)映画は彼が担当。『2001年・・・』で宇宙とクラシックをキューブリックが結び付けた“音楽も視点を原点に戻す”と言う作業は、現代クラシックを書くジョン・ウィリアムズを『ハリー・ポッター』に起用しても新鮮では無いのです。その作曲法が同じで有る以上。悲しきかな芸術家の功績は多くの場合、死後それを称えられています。それは、同時代を生きる者はその評価に対して厳しく観る目を持つからだと思います。過去の巨匠と呼ばれる人が何年生きていたにせよ、私達からすれば、過去と言う膨大でもわずかなフィールドに存在するからです。つまり死後のフィールドに移った人の作品は、今後2度と生産されない貴重な作品と言う前提条件が有るから、作品と作品の制作の期間に20年や30年の隔たりがあってもその価値に対する評価は過去と言うフィールドに守られています。でも、現在を生きる我々が、保守的な映画創りをしちゃ満足させられる観客は、わずかだと言う事です。

それを頭にすえて『ムーラン・ルージュ』を言うならば、過去の曲、ありふれた題材、誰もが使う合成技術を、使いこなしてしまってる。と言う一言だと思います。使いこなす事により、新たな命を吹き込んでいる。と言う事です。最後のタイトルバックも独自です。もう半世紀も前にこのような手法が有ったにせよ。オマージュに留まらず、現代感覚(これは観客にとって必要不可欠でしょう)を取り入れています。

『2001年・・・』でも独解したように、主がどこに存在するか。今回扱ったように新しい視点で描かれているか。これを観客に的確に伝える事は、映画創りには必要不可欠な事でしょう。

今回は、観客側からと製作側からとの両面から映画の存在の位置づけを確認してみました。





VOL.1『2001年宇宙の旅』2001:a space odyssey
本当の2001年は、あっと言う間に過ぎ去ってしまいましたね。
でも映画『2001年・・・』は、未来を描いた映画から過去を描いた映画へと移行したとしても、何を描いた映画かの議論は永遠の課題にされるんでしょうね。
そこで、あくまでの独解として僕の独解を・・・

僕は『2001年・・・』を最もシンプルな「主従の関係」で見ています。主役が有って無いのが この映画の特筆する事ですよね。だったら何を描いて居るのでしょう。視点を人物から、人間と道具、それに“モノリス”で象徴される“智”に分けて、この映画を観て行く事にしてみましょう。各シーンでの「主従関係」に視点を置くと見えて来る物が有ります。

「人類の夜明け」のシーン、描かれるのは、荒涼とした大地。まずそこには、何も無いと言う事が描かれます。2〜3のシーンの後、類人猿が登場しますが、ここに描かれる猿人は一緒に登場するバクの様な生き物と何ら変りません。ここまでは「主従関係」が無い世界が描かれています。次に“モノリス”の登場です。明らかに自然の物とは違うこの物質、すぐその後に描かれる骨を道具として「使う」猿人からも判る通り、“モノリス”は“智”を含んだ存在です。ここで「主従関係」が発生します。ここでの「主」は猿人に有ります。でも、この「人類の夜明け」の最後で第一の殺人、有っては成らない愚かな行為が描かれます。

この殺人と言う愚かな行為で、人類は道具に使われてしまう「従」の立場に立たされます。映画『モダン・タイムス』でも描かれていますね、道具に支配される人間は・・・。投げ上げられた「主」の立場に成った道具の骨は、一足飛びに2001年の宇宙船に置き換えられます。不要な説明を省き、演出で見せた見事なシーンです。何千年の時を過ぎても人類は間違いを犯しています。道具で有るべき物達にしたがって居るのです。道具あってこそ生きて行ける人類が描かれていますよね。月面で登場する“モノリス”にも、思い上がりの人類の行動の象徴“智”の前での記念撮影をしようとした人類を拒否するかのごとく電波を発生させます。道具が「主」を握った世界は、コンピューター=ハルによる殺人にも象徴されています。人が創り出した道具により殺されるのです。骨による殺人となんら変りません。

しか〜し!そこに現れいでたる人類1人!道具に立ち向かえり〜!道具=ハルを「従」に回した選ばれし人類は縦割れの光の流れ、後で説明しますが僕は“産道”と見てます。を通り、「人類の夜明け」の冒頭で見せた何も存在しない大地に送り込まれます。と、いきなり現れる部屋!・・・よ〜く観察してください。この部屋の明かりは、すべて外界の床や天井から入って来る明かりだけです。しかも無垢を象徴するかの様な色使いの部屋です。僕は乳白色の、この部屋を、“母体”をイメージ化した部屋だと思ってます。この母体に到達するまでの光のシャワーは“産道”のイメージだと思っています。ここで選ばれし人間は栄養(食事)や休息(ベッド)を与えられます。そして象徴として現れる“モノリス”に触るかのごとく、完全無垢なる人間は手を差し出します。ちょうど無垢な猿人が“モノリス”に触った時の様に・・・生まれたてのスターチャイルドは、その透き通った眼差しで、両手を合せ、地球を見守ります。冒頭の「ツァラツーストラは、かく語りき」が響き、新しい世界の訪れを暗示します。・・・THE END・・・

・・・でも、これはあくまでも僕の独解です。あなただけの観方があって良いのです。「私は、こう観た!」と言うご意見がありましたら、是非BBSに御出でくださいませませ!ところでこの映画、完璧な撮影を目指したんですが、どうしても地球の重力に逆らえなかったシーンがあります。それは宇宙食をストローで飲むシーン、ストローの中の液体の水面が下がると言う事です。この偉大な映画も自然の力には逆らえなかった!としも象徴的でしょ?